今回、暗黒放送横山緑がDVDを出すとともに、その発売イベントとして決定していた全国3店舗の『とらのあな』で握手会・サイン会の開催が中止になった。
原因はTwitterでの殺害予告である。
秋葉原(イベントが開催される場所)にて、横山緑を殺す。と書き込みがあった。
しかし、実は横山緑が殺害予告をされたのは初めてではないのだ。
なぜ横山緑は殺害予告をあんなにもされるのか?
ニコ生界の重鎮横山緑氏がまたも殺害予告された。「また」というのも、これまでに私の知る限りでも4回はされている。一生のうちにあんなにも殺害予告をされる人もそういない。
なぜ、標的にされるのか?
仮にここでは殺害予告した者をXとしておこう。横山緑氏を殺す。
おそらく、X本人は実際に殺すつもりはなかっただろう。
殺す相手に一生を捧げる程の理由もないだろう。
かつて殺害されたビートルズのジョンレノンのように、世界的な影響力を持つ人でもない。
所詮、「ネットの中でちょっと有名な人」である。愛し過ぎ故に横山緑を殺す、は考え辛い。
確かに、「握手会」は「暗黒ルール」を大幅に破る行為ではあるが、元々、大して一貫性のあるわけではないのが横山緑氏だ。
馴れ合うし、出会うのが横山緑氏だ。「暗黒ルール」を「横山緑」を「守る」ための殺害予告も考え辛い。
Xはマークチャップマンではないだろう。自身の人生と「殺害」を天秤にかければ、すぐ分かる。殺す程の価値のない人だ。
ところで、一般的に、誰かに対して「殺す」と発言するのは2パターンある。
1つは、とても仲が良くなんでも言い合える関係である場合。
もう1つは、相手を心底恨んでいる場合。
これは、相手のコンプレックスに触れることにも繋がる。
仲の良すぎる友達に「デブ」、「チビ」、「ブサイク」と発言出来る。
逆に、それらの言葉を仲が良くないのに発するのは、物凄く嫌っている場合だ。物凄く嫌っている故に、身体的あるいは精神的コンプレックスを指摘し、攻撃する。「殺す」「死ね(4ね)」と言った言葉には、意外にも二面性を持ち合わせている、非常に極端な言葉なのだ。
しかし、今回の殺害予告すなわち「殺す」にはそのどちらも含まれていないし、含まれているように思える。
と、いうのも仲が良い相手でもないだろうし、物凄く嫌いというのも考え辛い。「ネット」という特殊なぼやけた世界では、その境界も曖昧になる。
「他人」と「親友」両方を兼ね揃えたのが「リスナー」なのだ。
2chの共同体人格体「おまえら」にも繋がる部分がある。その揺れ動く隙間から発せられた言葉が今回のXの殺害予告ではないだろうか。
端的に表してしまえば、「ネットの中のわるふざけ」であるが、それが4回もだとそうも言ってられないだろう。
横山氏自身も休まらないだろう(以前の「広島天誅」の殺害予告時は、西日暮里の自宅の鍵を開けっ放しで就寝していたというが)。
一種のブーム化してしまっている「殺害予告」である。
ではなぜ、「殺す」価値もない男に殺害予告をするのか。見ているリスナー側としてももう4回目だ「面白くない」。
答えを明確に出そうとするならば、やはり「キチガイ」だからという結論に落ち着くのだろう。
しかし、それは考えることを放棄した人間の最も簡単な答えの出し方である。自分と異なる人種との輪が広まらない。
理解しろと押し付ける訳ではない。なぜ、横山緑氏があんなにも殺害予告をされるのか少し、考えていただきたいのだ。
私の出した1つの仮説はこうだ。
横山緑氏は優しいから、ちょっとした悪ふざけも許してくれそう。
ちょっと問題になっても、ちょっと謝れば「和解」できる。この安直さにこそあるのではないかと考える。「和解」。
横山緑氏の配信をよく聞く者ならば、このワードをよく耳にすることだろう。「まきのと和解」「石川典行と和解」挙げ句の果てには以前、殺害予告をした「広島天誅」の男とも「和解」しているのだ。「和解」の人である。
今回の殺害予告には、その付け込み易い素直な性格が原因で招いてしまっているのではないか。という仮説だ。